震災遺構 仙台市立荒浜小学校
GWに訪れた仙台旅の続きになります。
1日目の食事を終えてホテルに戻りテレビを付けた時だった。地元ニュース番組で震災遺構荒浜小学校の映像が流れていた。
3月11日地震発生後に大きな津波にのまれた若林区。ニュースで自衛隊ヘリからの映像が映し出され、波にのまれまいと必死に逃げる車。ほぼ水没してしまった街で唯一といっていい残された建物。それが荒浜小学校でした。私の住んでいる地名と同じだったこともあり鮮明に記憶に残っている。
ホテルでニュースを見終えたと同時に妻とも「行こう」ということになり、翌日の午前中に訪れてきました。現地までは前日と同じくレンタルサイクルで。スマホのナビで行き先を入力すると仙台駅から約10kmとのこと。今いる場所からわずか10kmのところであのような大変な被害が起きたのかと改めて知る。
のんびり走って約一時間。次第に家が減っていき、県道に差し掛かったところから一切家の無いエリアになり、そこが津波被害にあった場所だとわかる。
校舎に掲げられた「ありがとう荒浜小学校」の文字。廃校になった学校に掲げられる言葉でありますが、この小学校においては”わたしたちの命を守ってくれて「ありがとう」”という意味も含まれている。
遠景では判りにくいですが近づくと外壁や手摺に津波の衝撃を受けた跡が見える。右奥に見えるのは津波に襲われわずかに残った防風林の一部。
1階は完全に水没してしまったため天井も崩れかけている。ここは保健室。津波直後は部屋いっぱいに瓦礫が流れ込んできた。
隣の1年1組の教室。
2階の廊下。戸棚の下の錆びた跡でここままで水没したことがわかる。
2階の職員室。
4階は展示エリア。
教室には震災前の街並みを再現した大きな模型があり、いろいろな場所に住んでいた方の思い出などが記されている。この模型の前に津波で家を失った老女が係員としていらっしゃって、このあたりのことを知る見学者さんと「あそこのお店が~」と当時の話を穏やかな笑顔を浮かべながら話をされていた。
教室の壁には当時のままと思われる時間割などとともに、震災後に書かれたメッセージが黒板いっぱいに残っている。
隣の教室では地震発生から津波に襲われるまで、そこから救出されるまでの出来事を当時の校長や自治会の方の話を交えたビデオが放映されていた。
この小学校がシェルターになりこの地区の多くの命が救われたということがわかった。
津波の到着時刻で止まった体育館の時計。
廊下に出て外の景色を眺めていると、若い男性が話しかけてきてくれた。この地区の出身とのこと。恥ずかしながら知らなかったこの地区の復興計画を聞くと、この小学校の手前にあった県道十号線から先の地区は津波による災害危険区域に指定され人が住むことはできないとのこと。海岸沿いは津波でなぎ倒されてしまった防風林の植林。その内側は運動施設や企業、農園などを誘致していくとのこと。たしかにグーグルアースを見てみると建物を建てるための土盛りやメガソーラー、運動場の整備などが進んでいる。
屋上から。奥には新しく建設された堤防が見える。
地上に降りて校舎の裏側に廻る。この中は給食室。調理器具がそのまま残されていた。建物の前面より津波のあとが生々しく残っている。
小学校を出て海岸へ向かう。
建物の基礎がそのまま残されているところもあり、そこが人の営みのあった場所だったことがわかる。
海岸手前に流れる川に掛かる「深沼橋(ふかぬまばし)」護岸はきれいに整備されていましたが、橋はそのままのようです。
防風林跡に建立された慰霊碑。左側は新設された堤防。
防風林はほとんどがなぎ倒され朽ち果てており、その中に瓦礫がまだ残っていた。
堤防にあがって海側を見る。
陸側。ほとんど何も残されていない景色が広がる。
感じたことはたくさんありますが、訪れた人によってさまざまな思いがあると思う。私は訪れて良かったです。